昭和43年(1968年)10月に明治100年・徳島市置市80年記念として徳島市中央公民館より徳島市民双書1として『徳島の百人』が発行されている。
その本の中に、ローガン博士はモラエスと共に徳島を愛した外国人として紹介されている。
ローガンは、アメリカ南部ケンタッキー州の片田舎シェルビビルに生まれている。実家は製粉工場を経営していた。古い家柄で、新教徒だったらしい。彼の徳島での伝導資金も実家からの援助がかなりあったといわれる。だから彼は南部びいきで、独立戦争については常に南部を弁護し、奴隷問題についても「普通の歴史教科書に書かれた如きものではない。」とよくいっていたという。(岡博「ローガン先生の人と信仰」)
「あたたかく上品で、聖者ふうの風ぼうだったが、一面剛気で感情の振幅が大きく、行動的で、信念については絶対に妥協せず、大声で何時間も論争を続けるところもあった」(古角勝小松島教会牧師)
徳島の農村における彼の伝道ぷりは、そのあたたかい思いやりや実際家的な一面を語るとともに、心から農民を理解しえた南部開拓農民の子孫としての伝統を思わせるものがあった。
1899年、同州ルイスビルとプリンストン神学校を卒業、同年二十五歳でパテイプレイン・マヤスと結婚、ジャクソン市で牧師生活を三年間送った。―これが来日前の彼の経歴である。